戦国時代の関宿を舞台として活躍した簗田氏(やなだし)の紹介と、関宿城を中心としたエリア(野田市・境町・五霞町)の観光情報をお届けします。

鎌倉府の再興と古河公方の誕生

■結城合戦

 公方足利持氏には、義久のほかに安王丸(あんおうまる)、春王丸(しゅんおうまる)、永寿王丸(えいじゅまる)の3人の子がいました。1440年(永享12)、結城氏朝(うじとも)は、下野国日光に匿われていた安王丸と春王丸を結城城に迎え、幕府に反旗をひるがえします。結城城には、結城氏朝、持朝(もちとも)親子や一族の山川氏、小山氏などのほか、宇都宮氏、佐竹氏など、関東の諸将が集まりましたが、幕府方は、上杉憲実、上杉清方(きよかた)などの上杉一族のほか、信濃の小笠原氏、甲斐の武田氏、越後の長尾氏などの大軍で結城城を包囲してしまいます。この戦いを「結城合戦(ゆうきがっせん)」といい、同族同士、兄弟同士が敵味方に分かれて戦いました。戦いは、結城方の籠城軍の奮戦により、1年余りを持ちこたえましたが、1441年(永享13)、幕府軍の総攻撃により城は炎上、戦いは終わりました。安王丸と春王丸は捕えられ、京への護送の途中、美濃の垂井で殺されてしまいます。
 結城合戦が始まった年の史料に、「足利安王丸代衆簗田景助願文」という文書があります。鎌倉を逃れた持氏の子安王丸と春王丸の兄弟が、幕府に抵抗する自らの立場を明らかにした日に、拠点とした木所城(桜川市岩瀬)に近い、現在の賀茂社(桜川市)で、挙兵の成功を祈願し、武運長久を願って奉納した願い札です。奉納した者は、安王丸の代理「御代衆景助」で、名前に「助」という字があることから簗田氏一族と考えられています。しかし、系図には「景助」という名はなく、誰であったのかは不明です。

●結城城址
写真は、結城城址公園の入口から撮影したもので、持氏の2人の遺児を奉じて幕府軍と戦った結城氏の居城でした。現在は公園として整備されており、北側には田んぼが開けています。また南側には堀跡が遺構として残っています。

所在地:茨城県結城市結城

■享徳の乱

 結城合戦の勝利により、関東における上杉氏の勢力は強力なものとなってきたことから、それを恐れた諸将は、1447年(文安4)、幕府に持氏の遺児で信濃大井氏に守られていた永寿王丸を鎌倉公方への就任と鎌倉府の再興を願いました。
 幕府は、乱を起こした持氏の子を鎌倉公方にすることは、本来ならば認められないことでしたが、6年前の1441年(永享13)に播磨、備前、美作の守護である赤松満祐(みつすけ)が、6代将軍義教を暗殺するという「嘉吉の乱(かきつのらん)」が起きており、乱はすぐに幕府軍により鎮圧されましたが、その後も混乱が続いていたこともあって、関東諸将の願いをかなえて、永寿王を元服させ「足利成氏」として鎌倉公方に就かせ、鎌倉府を再興しました。
 一方、関東管領には、成氏の親である持氏と戦った上杉憲実の子憲忠(のりただ)を就けたことから、公方と関東管領は敵同士という関係になってしまいます。しかし、両者とも公方や関東管領に就いたときは、幼く互いが仇敵であるという意識は薄かったのでないかと思われます。
 成氏は成長し、実権を握ると、先の結城合戦で滅亡した結城氏の功に報いるため、結城氏朝の子成朝(しげとも)を取り立てて結城家を再興するなど、公方方の諸将を重んじ、反対に関東管領上杉方の諸将を軽んじた扱いをするようになります。このことは関東管領の憲忠にとって、見過ごせることではなく、成氏と憲忠の間が険悪になっていきます。
 そして1454年(享徳3)、成氏は憲忠を襲撃し殺害する事件が起こります。これに対して関東管領である山内上杉家と同族の扇谷上杉家は、共同して兵をあげるとともに幕府に援軍を求め公方方と戦いを始めます。この戦いを「享徳の乱(きょうとくのらん)」といい、関東の諸将は、今度は公方方と上杉方に分かれて、大よそ四半世紀の長きにわたる戦いを繰り広げることになります。
 成氏は、幕府に憲忠の殺害について、何度も弁解をしましたが、幕府は「関東に大乱を起こす不義の至り」と成氏の言い分を聞かず、幕府軍を関東に派遣します。1455年(康正元)、幕府軍の駿河守護今川範忠は、成氏が上杉氏との戦いで鎌倉を離れている間に鎌倉を焼き払ってしまいます。遠征から帰った成氏は鎌倉に戻れなくなり、御料所である古河に移ります。以来、成氏は古河を根拠地としたことから「古河公方(こがくぼう)」と呼ばれるようになりました。