戦国時代の関宿を舞台として活躍した簗田氏(やなだし)の紹介と、関宿城を中心としたエリア(野田市・境町・五霞町)の観光情報をお届けします。

関宿合戦

■第一次関宿合戦

 1565年(永禄8)から1574(天正2)までに関宿城の争奪を目的とした北条氏による関宿城攻めが3回行われます。氏康は、反北条勢の前進基地となっていた関宿城を孤立させるため、周辺の城の支城化を進めます。
まずは、1564年(永禄7)氏康は武蔵国内で唯一謙信方であった岩付城を落とすため、岩付城主の太田資正の子氏資(うじすけ)に資正を追放させて、攻略拠点のひとつを確保します。翌1565年(永禄8)には、子の氏政(うじまさ・北条氏4代目)と共に前年に確保した岩付城と江戸城を拠点として、関宿城に攻撃を仕掛けました。第一次関宿合戦の始まりです。
合戦は、新たに岩付城主となった氏資が先陣となり攻めますが撃退され、さらに氏康親子で攻め込みますが、簗田氏の堅固な守りに、北条方は城を落とすことができませんでした。攻めあぐねていると、謙信が関東に進出してくるという報が入り、あわてて軍を撤収して帰ってしまいます。これにより第一次関宿合戦は、晴助が守り勝ちし、関宿城を守り通すことができました。
関東に進出してきた謙信は、さらに兵を進め下総国臼井城の原胤貞(たねさだ)を攻めますが、攻撃に失敗して越後に帰ってしまいます。謙信の帰国により後ろ盾をなくした晴助は、氏政と和睦交渉を行い、所領の要求や公方の御座所の移座など、簗田氏の要求に沿って合意がなされました。


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■第二次関宿合戦

 しかし、この和睦は、1566年(永禄9)に義氏の家臣である栗橋城主の野田氏が、謙信方に寝返ったことで城を追放され、後に氏政の弟北条氏照(うじてる)が入ると崩れてしまいます。関宿城の目と鼻の先にある栗橋城が新たに北条氏の拠点になったことは、簗田氏にとって再び大きな危機を迎えることになりました。1568年(永禄11)、栗橋城の氏照は栗橋城と関宿城の間に二つの砦を築き、ここを拠点として関宿城に攻撃を仕掛けてきました。第二次関宿合戦です。
 また、北条氏にも危機が訪れます。1554年(天文23)に武田信玄、今川義元と互いに攻めないとして結んでいた甲駿相三国同盟が、信玄の駿河侵攻で崩壊し、氏政は急に三方に敵を抱える形になってしまいました。このとき、信玄は北条氏の背後を混乱させるため、晴助にこの機会に武蔵国へ軍勢を進め、北条氏を攻撃するよう要請しています。
 氏政は、この危機を脱するため、今まで争ってきた越後国の謙信と和平を結び、信玄を牽制することにしました。この和平が成立することで、関宿城で戦闘中であった氏照と晴助の間も謙信を通して、自然に関宿城への攻撃は止み休戦となりました。
氏政と謙信が結んだ越相同盟には、「義氏を正当な古河公方として認める」という条件があり、謙信がこの条件を呑んだことで、各地を転々としていた義氏は、古河公方として古河に戻り、謙信が関東管領を務めることになりました。1570年(元亀元)のころと言われています。
 しかし、義氏が公方、謙信が関東管領という体制になっても、氏照が義氏の後見人であったことから、義氏は北条氏の傀儡(かいらい)であることには変わりありませんでした。

■第三次関宿合戦

 着々と関東に支城ネットワークを広げている北条氏の強力な軍事力に対抗できなくなった簗田氏は、新たに頼る先として、北条氏と越相同盟を結んだ謙信から、謙信と敵対関係にあった信玄に切り替えることにしました。それを受けて、信玄は簗田氏の血筋である藤氏の弟藤政(ふじまさ)を古河公方に立てることを大義名分として、上野国へ侵攻してきます。武蔵国の羽生まで進出し、藤政を関宿城に入城させようとしましたが、1571年(元亀2)越相同盟を主導してきた氏康が亡くなると、子の氏政は、再び信玄と手を結ぶことにし、謙信との同盟を解消、再び謙信と対立することになりました。この影響で、晴助は再び謙信と結ばざるを得なくなりました。
  1573年(天正元)、氏照は三度目となる関宿城への攻撃を始めます。翌年には氏政も加わって、本格的な攻撃が行われるようになると、晴助は謙信や佐竹義重(よししげ)に救援を求めます。謙信は求めに応じ羽生まで進出しますが、由良氏の離反や越中平定、さらに織田信長(のぶなが)に京都を追放された15代将軍足利義昭(よしあき)からの上洛要請など、いくつもの問題を抱えていて、関東に大規模な軍勢を送ることができませんでした。代わりとして常陸国の佐竹氏や下野国の宇都宮氏に出陣を求めますが、北条氏を追い払うほどの後詰にはなりませんでした。
 一方、関宿城を攻撃している北条方には、傘下の諸将も加わりおおよそ3万余騎の軍勢にまで膨らんだといわれています。圧倒的な戦力の差と大包囲網を敷いた北条勢の猛攻を受け、弾薬、食料が乏しくなると、城内から内通者が出るなど、統率の乱れも出て、ついに晴助は佐竹氏に仲介を頼み関宿城を明け渡すことになりました。ここに簗田氏の関宿支配は終了することになりました。
 長年にわたり晴助を支援してきた謙信は、この戦いの後、再び三国峠(みくにとうげ・越後国と上野国の峠)を越えることはありませんでした。
 氏政は、関宿合戦に勝利し関宿城を確保したことで、北関東への版図拡大に向けて大きな一歩となりました。そのような中で公方義氏は依然として古河に居ましたが、公方の権威や地位は事実上失われ、公方家も北条氏の支配下に組み込まれることになりました。

■水海に退去した後の簗田氏

 関宿城を出た簗田晴助、持助親子は、もともとの所領である水海に退去して、義氏の赦免もあり再び公方家に仕えました。しかし、事実上公方は北条氏の支配下に置かれており、かつての簗田氏が置かれた立場とその性格を異にすることになりました。
 1580年(天正8)、武田勝頼(かつより・信玄の子)の関東進出に呼応して、反北条勢の佐竹義重が古河公方の居城である古河城を攻撃しますが、晴助はこれを撃退し、また織田信長(のぶなが)の家臣の滝川一益(たきがわかずまさ)が厩橋城(うまやばし・前橋市)に入ると、公方の奏者でもあった持助は、その対応について義氏に報告するなど、公方家の家臣として働いていたようです。

■公方義氏の逝去

 1582年(天正10)、古河公方足利義氏が亡くなります。義氏に男子がなかったことから公方家は断絶することになりました。支援をしてきた氏政も後継者を立てなかったことから、すでに古河公方の権威は、不要と見ていたものと思われます。公方家の断絶で、文書に晴助、持助の名前が見られなくなる代わりに傍流の水海の簗田氏と思われる助実(すけざね)、経助(つねすけ)、助縄(すけつな)などが登場してきます。助実は、義氏の遺児氏姫(うじひめ)の実質的な執政機関である御連判衆を務めており、義氏の逝去を境として傍流の簗田氏が簗田一族を束ねる力を持ったようです。

●徳源院跡・義氏墓所

写真は、5代古河公方足利義氏の子氏姫の法号から徳源院と称した寺の跡で、「古河公方足利義氏墓所」として県指定史跡となっていて、古河公方公園(古河総合公園)の中にあります。正面の石碑は「古河公方義氏公墳墓」の標石で、左の石囲いの中には、氏姫と子の義親の宝篋印塔(ほうきょういんとう)、義氏の遺骸の一部が葬られたといわれる塚などがあります。
右下の写真は、同じ公園内にある鴻巣御所の跡地で、古河公方館跡の石碑が立っています。古河公方となった成氏が古河城に移るまでの間、また義氏の子氏姫が生涯を終えるまで住んでいたと言われています。

所在地:茨城県古河市鴻巣

■その後の簗田氏

 1590年(天正18)、20万を超える豊臣秀吉の軍勢が小田原城を囲み、小田原攻めが行われます。この時の北条方の陣容を示す文書に「やなた殿」という記載があって、これは傍流の簗田氏であったと言われています。一方、嫡流の簗田氏は、秀吉の家臣の浅野長政(あさのながまさ)と書状のやり取りが残っていることから、豊臣方に就いたものと思われます。
 秀吉の小田原攻めにより、傍流の簗田氏は北条氏とともに滅び、嫡流の簗田氏は当主として実権が復活したものと考えられています。小田原攻めの後、関東には徳川家康(いえやす)が入部し、関宿城には異父弟の松平康元(やすもと)が置かれ、関宿藩の藩祖となりますが、残った簗田氏の嫡流である貞助(さだすけ)は、浅野長政の推薦で家康に仕え、子の助吉(すけよし)と共に、1615年(元和元)豊臣方と徳川幕府軍が戦った大坂夏の陣に参戦し討死してしまいます。これにより簗田氏は、直系の男子が絶えることになりましたが、助吉の妹が簗田家を再興し、その子助政(すけまさ)が家督を継ぎ、その後も徳川幕府の中で綿々と簗田家が存続していきました。

●終わりに
 簗田氏の盛衰の歴史物語は、公方の家臣として忠実に、そして律儀に公方のために戦った一族という印象が残りました。歴史には「たら・れば」はありませんが、もし公方家の中で勢力を伸ばし、力を蓄えて北条氏の関東進出の前に、独立をしていたら、戦国大名の一家として簗田氏がもっと歴史の表舞台に出ていたかもしれません。その律義さに残念な思いが残りました。