戦国時代の関宿を舞台として活躍した簗田氏(やなだし)の紹介と、関宿城を中心としたエリア(野田市・境町・五霞町)の観光情報をお届けします。

混迷を極める関東

■関東を東西に二分

 1454年(享徳3)享徳の乱のさなか、足利成氏(しげうじ)は鎌倉に戻れず、御料所であった古河を新たな根拠地としたことから、「古河公方」と呼ばれるようになりました。
 成氏が、この地を選んだ理由は、古河は上野国、下野国、常陸国、武蔵国が交差する内陸交通の重要な場所であり、また御料所である下河辺荘(しもこうべのしょう)の中にあって戦の兵糧を整えるのに最適な土地であったことがあげられます。

●古河城
渡良瀬川の東岸にあった城で、平安時代の末期に活躍した下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に城舘を築いたのが始まりといわれ、室町から戦国時代にかけては、古河公方の居城となりました。江戸時代には出城と呼ばれる「諏訪曲輪」が築かれ、古河歴史博物館の脇に土塁と堀が残っていますが、城跡の大半は明治期の渡良瀬川の改修工事で消滅しました。三国橋と新三国橋の中間地点に「古河城本丸跡」の標柱が建っています。


所在地:茨城県古河市古河

 

 公方方と上杉・幕府方が戦った享徳の乱は、関東各地に波紋を広げます。関東の諸将は、公方方かあるいは上杉方のいずれかに付かざるを得なくなり、当時江戸湾に流れていた利根川を境として、東側は古河公方に、西側は関東管領の上杉氏に付いたことで、関東は大きく二つの勢力に分かれることになりました。
 「鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)」には、このころの公方と上杉・幕府の争いとして、次のような話が残っています。

 1455年(康正元)、駿河国守護今川範忠(のりただ)は、将軍の命令書と御旗をもって、成氏を討つべく東海道の諸将を率いて鎌倉に向かいました。これを知った成氏は、木戸氏、大森氏、印東氏、里見氏などを待ち受けさせて戦いを仕掛けますが敗れてしまい、さらに新しく差し向けた軍勢も敗れて、武蔵国府中(東京都府中市)に逃げてきます。その途中でも上杉氏に味方する武蔵国南部の豪族集団の南一揆に襲われますが、簗田河内守や結城氏が先陣となって、これを打ち破って武蔵国菖蒲(久喜市菖蒲町)にたどり着き、ここで味方の兵を集めて古河に帰ることができました。
 また、同じ年の出来事として、成氏が鎌倉公方に就くと下総国に拠点を置く千葉氏宗家の当主千葉胤直(たねなお)と子の胤宣(たねのぶ)は、最初はこれを支えましたが、上杉氏との争い(享徳の乱)が始まると、上杉方に寝返ってしまいました。この寝返りを面白くなく思っていた一族の原胤房(たねふさ)は、成氏の加勢を得て千葉城に押し寄せました。突然のことで、胤直親子は防ぐこともできずに城は落ち、多胡城、志摩城(いずれも千葉県多古町)に逃げますが、同じ一族である馬加康胤(まくわりやすたね)が、親子が逃げた先の城を攻めてこれを滅ぼし、康胤は自ら千葉氏の宗家を継いでしまいました。
 この時、千葉胤直と共に戦った弟の胤賢(たねかた)は、子の実胤(さねたね)・自胤(よりたね)を連れて落ち延び、後になって上杉氏が実胤らを取り立てて下総国市川城に置いたことから、千葉氏は、公方方と上杉方の二つに分かれることになりました。しかし、1456年(康正2)、成氏は実胤の市川城(市川市)に南図書助、簗田出羽守などの大軍を派遣して攻め落とてしまいます。

これらのこと以外にも、成氏が簗田氏、里見氏、武田氏、一色氏らに300騎余りを添えて、上杉方の埼西城(埼玉県騎西町)を攻め落としたことや、簗田河内守が関宿から出て武蔵国足立郡(埼玉県鴻巣市から東京都足立区までの地域)を半分押領し、市川城を取ったことなどが書かれています。

 古河公方と関東管領の争いでは、1459年(長禄3)関東管領上杉房顕(ふさあき)は、公方に対抗するため、武蔵国五十子(いかっこ・埼玉県本庄市)に一族を集めて砦を築くと、これを知った成氏は、この砦を攻めるため、近くの太田庄(熊谷市周辺)へ進出し上杉勢と交戦してこれを破り、さらに利根川を渡って攻撃を仕掛けてきた上杉勢を追い払ってしまいます。上杉方は、続く敗戦で大きな打撃を受け、以後五十子を挟んで公方勢と長くにらみ合いを続けることになりました。


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■簗田氏の台頭と関宿城への進出

 このころの簗田氏は、鎌倉大草紙などの史料に、合戦に登場する記述が増えていることや簗田満助(みつすけ)の子持助(もちすけ)と孫の成助(しげすけ)が、公方に取り次ぎをする奏者(そうじゃ)を務めていたことが書かれていて、公方の家臣の中で重きをなしてきたことがうかがえます。
 また、鎌倉大草紙に簗田河内守と簗田出羽守の二人が登場しますが、河内守は関宿城主であった持助であると思われ、もう一人の出羽守は水海の傍流の簗田氏であったと考えられています。
 簗田氏が成氏の命により関宿城へ入ったのは、上杉・幕府方と戦をしていた最中の1455年(康正元)のころであり、成氏は、南からの脅威に備えて、古河城を支える両翼として関宿城には簗田持助を、栗橋城には同じく家臣の野田氏を置きました。守りの一翼となる関宿城に簗田氏を置いたことは、簗田氏は公方にとって最も信頼できる家臣の一人であったと思われます。関宿城の築城もこの時期といわれていますが、正確なところは不明です。
 公方の命令であったにせよ簗田氏が関宿城に入り、物や人が集まる内陸交通の重要な場所である関宿を治めたことが、簗田氏一族を大きく発展させるきっかけになりました。

●関宿城
簗田成助の築城といわれていますが、異説もあり正確なところは不明です。本丸跡には「関宿城址」の石碑が立っており、その北東500メートルには関宿城の古い記録に基づいて再現した天守閣を持つ、千葉県立関宿城博物館があります。

所在地:千葉県野田市関宿

●栗橋城
権現堂川の東岸にあった城で、足利成氏が古河に入り古河公方となると、関宿城と同様に政治的、軍事的に古河を支える重要な場所として、重臣のひとりである野田氏が配置されました。遺構は権現堂川の改修等で見られませんが、小高い丘や空堀が残っています。個人宅の入口には栗橋城の説明板が設置されています。


所在地:茨城県五霞町元栗橋

■堀越公方

 関東の諸将は、古河公方と関東管領が争う乱れた状況をなくそうと、1457年(長禄元)幕府に「将軍の子を関東に下向させ、関東の公方(鎌倉公方)を置かなければ関東は収まらない」と訴えました。幕府は、幕府に反抗する古河公方の成氏を廃するためにも、その訴えを聞き6代将軍の義教(よしのり)の弟で天龍寺の香厳院清久(こうげんいんせいきゅう)を還俗(げんぞく)させて、鎌倉公方足利政知(まさとも)として鎌倉に向かわせました。しかし、政知は、成氏の支配地に近い鎌倉には入らず、伊豆の堀越に屋形を立てて拠点としたことから、「堀越公方(ほりごえくぼう)」と呼ばれることになります。堀越に落ち着くと政知は、成氏と敵対関係にある関東管領の山内上杉家と、さらに同じ一族の扇谷上杉家の両方の上杉家と組んで、古河公方への抵抗を始めます。
 一方の成氏も同様に敵対する堀越公方を除こうと、1471年(文明3)、小山氏、結城氏、千葉氏などの軍勢と箱根を超えて攻め込み、一時は優位に立ちますが、上杉方に加勢があって、公方方は敗れてしまいます。成氏は這う這うの体で古河へ帰城しますが、今度はそこに上杉方の長尾景信(かげのぶ)の率いる大軍が来襲し古河城を囲まれてしまいます。城の守備隊はよく防戦しましたが、落城し敗れた成氏は、公方方の千葉孝胤(のりたね)を頼って千葉城に逃げました。千葉城で安房の里見氏、上総の武田氏などの近隣の諸将に迎えられた成氏は、勢力の巻き返しを図り、翌年には簗田氏をはじめ、野田氏、私市(騎西城)の佐々木氏、那須氏、結城氏などの力により古河城を奪還し、古河へ戻ることができました。

■長尾景春の乱と都鄙合体

 1473年(文明5)、武蔵国五十子で古河公方の軍勢とにらみ合いを続けていた関東管領の山内上杉家の家宰長尾景信(かげのぶ)が陣中で死去します。家督は子の景春(かげはる)が継ぎますが、家宰は当主の上杉顕定(あきさだ)が、景春の叔父である長尾忠景(ただかげ)に与えてしまったことから、家督は継いだものの、家宰となれなかった景春はその人事に不満を持ち、1476年(文明8)顕定に対して謀反を起こします。「長尾景春の乱(ながおはるかげのらん)」と呼ばれています。
 景春は、武蔵国鉢形城(埼玉県寄居町)に入り、山内上杉家と敵対していた公方成氏と手を結び、1477年(文明9)には、五十子に滞陣していた顕定と扇谷上杉家の定正(さだまさ)を攻めて、顕定を領国の上野国平井城(藤岡市)に、定正を扇谷上杉家の居城河越城(川越市)にそれぞれ敗走させて勝利を得ますが、態勢を立て直した顕定と定正、そして戦上手といわれた扇谷上杉家の家宰太田道灌(どうかん)に、今度は用土原(ようどはら・埼玉県寄居町)の戦で負けてしまい、鉢形城に籠りました。顕定らは城を囲みますが、成氏の援軍が来ることを知ると、囲みを解き撤兵したので、落城は免れることができました。
 景春は、その後も先代の残した蓄えを使い、成氏と上杉氏が和睦した後も戦いを繰り返しました。

 公方成氏は、上杉氏の滅亡に期待を寄せていた景春の反乱が思うように進まず、あまりにも長い間の合戦続きとなったことから、1478年(文明10)山内上杉家の家宰長尾景忠(かげただ)に和議を申し出ます。この時の使者が、簗田中務大輔(なかつかさのたいふ)で、持助の子成助と思われます。
 成氏は、上杉両家との和議だけではなく、上杉方を支援していた幕府とも、1482年(文明14)に「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議を行い、関東に久しぶりの平静が訪れました。
 この年、公方の家臣として、いくつもの戦いの中で明け暮れした簗田持助が死去します。古河市磯辺の安禅寺(あんぜんじ)には、持助の墓と言われている五輪塔があり、古河市指定文化財(史跡)になっています。

●安禅寺
安禅寺を開いたのは簗田持助といわれ、持助は逝去に伴い「壽祥院殿昇岩利公大禅定門」と号しました。本堂左奥の墓所入口の右側に9基の五輪塔が並んでいて、一族の墓石と伝えられています。中央の一番大きい塔の最下部には「壽祥塔」と彫られていることから持助のものと言われていますが、昭和の時代にばらばらであったものを先々代の住職がまとめたもので、初期の形態は保っていません。平成3年に古河市指定文化財となっています。



所在地:茨城県古河市磯辺

 公方成氏と上杉氏の和議が成立したことで、成氏から支援を受けていた景春は、本来であれば上杉氏への攻撃を止めることになりますが、成氏の諫言も聞かずに攻め続けたことで、手にあました両上杉家は、戦上手の扇谷上杉家の家宰道灌に鎮圧させます。期待に応え道灌は反乱を鎮めましたが、この活躍により扇谷上杉家の権威が高まり、扇谷上杉家は山内上杉家と並ぶ力を持つようになりました。

 道灌の力量を恐れた顕定は、道灌を亡き者にしようと扇谷上杉家の定正に道灌への疑いを持つよう仕向け、定正はそのはかりごとに乗ってしまい、1486年(文明18)道灌を暗殺してしまいます。道灌は、死に際に「当方滅亡(これでは扇谷上杉家は滅亡する)」と言ったといわれ、実際に道灌が亡くなると、多くの家臣たちは、定正のもとを離れ、山内上杉家に移ったといわれています。