戦国時代の関宿を舞台として活躍した簗田氏(やなだし)の紹介と、関宿城を中心としたエリア(野田市・境町・五霞町)の観光情報をお届けします。

諸家の内紛

■長享の乱

 謀略による道灌の暗殺や家臣の離反などにより、山内上杉家と扇谷上杉家の間に確執が高まってくると、1487年(長享元)山内上杉家の当主顕定は、扇谷上杉家に内通していた下野国勧農城(かんのうじょう・足利市岩井町)の長尾房清(ふさきよ)を攻めて城を奪ってしまいます。これをきっかけに、山内上杉家と扇谷上杉家の同族による争い「長享の乱(ちょうきょうのらん)」が始まります。今度は関東の西部で北と南に分かれて、おおよそ20年の争いが続くことになりました。
扇谷上杉家の当主定正は、山内上杉家に謀反を起こした長尾景春を味方につけ、またこの前までは敵であった公方成氏とも手を結び、相模国の実蒔原(さねまきはら・神奈川県伊勢原市)や須賀原(すがやはら・埼玉県嵐山町)、高見原(埼玉県小川町)で行われたすべての合戦で勝利を収めることができました。しかし、もともと地力で勝る山内上杉勢を追い払うことはできず、却って連戦に戦力を消耗したことで、次第に劣勢になっていきました。
それでも、定正は戦を止めようとはせず、戦い続けたことで両上杉家は没落の一途をたどることになってしまい、新たに伊豆で興った新勢力である北条氏の関東への進出を許すことになりました。

■公方家の内紛

 1497年(明応6)戦いに明け暮れた公方成氏が逝去し、子の政氏(まさうじ)が古河公方になると、政氏と子の高基(たかもと)の親子間で、政氏が山内上杉家と親密な関係を築こうと弟の顕実(あきざね)を顕定の養子に出したことや台頭してきた北条氏への対応を巡って対立することになり、一時、高基は舅である宇都宮成綱(しげつな)の下に逃れます。この時は顕定の仲介で和解しましたが、1510年(永正5)に顕定が戦死すると山内上杉家の後継ぎを巡り、高基は再び政氏と対立し、1510年(永正10)簗田氏の関宿城へ移ってしまいます。
この公方家の内紛は、家臣である簗田家にも大きく影響することになります。当時、簗田氏の当主は成助(しげすけ)で、跡を継ぐ男子がいなかったことから、弟で傍流の水海簗田家の政助(まさすけ)の子高助(たかすけ)を養子として迎えていました。
公方家の親子対立に合わせるように、高助は高基に、高助の実父で水海の政助は公方政氏に組することになり、公方家と同様に対立することになりました。この時、高助の養父成助がどちらについたのかは不明ですが、1512年(永正9)に亡くなっていますので、すでに高助が家督を継いでいたのか、あるいは継いではいないものの実権は握っていたのかもしれません。
水海の簗田政助は、政氏の奏者として働いており、政氏が高基との争いに敗れるまでの一時期、簗田家の当主としてふるまっていたようで、政氏が古河を離れると一緒に古河を出て、最後まで傍につき従っていたようです。簗田家の家督は、高基が公方に就くことで関宿の高助に戻ることになりました。
1512年(永正9)、高基との争いに敗れた政氏は、小山氏を頼り祇園城(ぎおんじょう・小山市)に移り、高基は古河城に戻ります。その後も政氏は佐竹氏や岩城氏などに古河城を攻めさせますが、1516年(永正13)、政氏を支援していた佐竹義舜(よしきよ)が、高基を応援していた宇都宮成綱に負けたことで、高基は名実ともに公方となることができました。この間、関東の諸将の間でも、政氏派と高基派に分かれて各地で戦闘が行われていて、お互いに戦力を消耗することになりました。

さらに政氏は、祇園城から扇谷上杉家の当主朝良(ともよし・定正の子)の岩付城へ移り、反撃の機会を狙っていましたが、頼みとしていた朝良の死により、武蔵国久喜の甘棠院(かんとういん)へ隠居し、公方家の内紛は収束しました。

●甘棠院・政氏墓所
古河公方足利政氏は、子の高基との政争に負けて、久喜に館を立てて隠棲し、この館をのちに寺として「甘棠院」と名付けました。寺紋は足利氏の家紋「足利二つ引」となっています。政氏の墓は、中雀門を入ると本堂の左手奥に歴代の住職の墓石に並ぶ形で、五輪塔の墓が建っています。政氏の館跡と墓は、大正14年に埼玉県指定史跡になっています。



所在地:埼玉県久喜市本町

 公方家の内紛と同じ時期に、山内上杉家でも内紛が起きます。山内上杉家の顕定が越後国守護代の長尾為景(ためかげ)と戦った長森原の合戦(新潟県南魚沼市)で戦死すると、顕定の後継ぎの座を巡って、憲房(のりふさ)と顕実の間が不仲となりました。憲房は4代前の関東管領憲実(のりざね)の孫であり、顕実は公方政氏の弟で両者とも顕定に養子として迎えられていたものでした。 当初、遺言により顕実が関東管領職を継ぎますが、憲房の命を受けた家宰の長尾景長(かげなが)に居城の鉢形城を攻められ古河に追われ、さらには1515年(永正12)に病死したことで、関東管領職は、もう一人の養子の憲房が継ぎ、山内上杉家の内紛も収束しましたが、自ら勢力を後退させることになりました。

■小弓公方

 これらの内紛騒動の間に、高基の弟で僧であった空然(こうねん)が還俗して、足利義明(よしあき)となり、最初は高基に味方をしていましたが、武田氏や里見氏などの支援を受けて独立し、下総国の小弓城(千葉市)に入り「小弓公方(こゆみくぼう)」と呼ばれるようになり、新たな勢力が下総国に誕生しました。公方の高基は親の政氏と争い、今度は弟の小弓公方義明と戦うことになりました。