戦国時代の関宿を舞台として活躍した簗田氏(やなだし)の紹介と、関宿城を中心としたエリア(野田市・境町・五霞町)の観光情報をお届けします。

北条氏の関東への侵攻

■北条氏の登場

 古河公方や両上杉家が関東で覇権争いを続けていたころ、簗田氏にとって新たな脅威であり、のちに関東を席巻する北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(しんくろうもりとき)、のちに北条早雲(そううん)と呼ばれる人物が登場します。早雲は、伊勢氏の出自で1432年(永享4)または1456年(康正2)の生まれといわれ、駿河国守護今川氏の家督争いに功を立てて、今川氏親(うじちか)から駿東地域の領地と共に興国寺城(こうこくじじょう・沼津市)を与えられました。
 しかし、早雲は常々隣接する伊豆国を手に入れたいと思っていて、古河公方や上杉氏による覇権争いが続き、伊豆国の兵や物資が関東に集められているのをしり目に、手薄となっていたすきを突いて、伊豆国の堀越公方に兵を向けてこれを攻めました。
 もともと、伊豆国堀越には古河公方に対抗して幕府が新たな鎌倉公方として下向させた足利政知(まさとも)が、屋形を構えていて「堀越公方」と呼ばれていました。両上杉家が古河公方足利成氏(しげうじ)と争っていた時には、堀越公方は上杉氏と手を結んでいましたが、成氏と上杉氏が和睦をすると、その存在は宙に浮き、かろうじて伊豆一国を支配する状況になっていました。このときの堀越公方は、京から下向した初代の政知はすでに亡くなっていて、2代目の茶々丸(ちゃちゃまる)が継いでいました。早雲に攻められた茶々丸は自害し、早雲は伊豆国を自分の領国にします。この事件は新興勢力が旧勢力を滅ぼす最初の下剋上だったという説もあります。
 また、1487年(長享元)に始まった上杉一族の山内上杉家と扇谷上杉家が争った「長享の乱」では、山内上杉家が古河公方成氏と組んだことにより、それに対抗するため扇谷上杉家は早雲と手を結びます。このことが、のちのち北条氏を関東に進出させるきっかけになってしまいました。
 その後、早雲は関東南部の制圧に乗り出し、小田原城(小田原市)の大森氏や岡崎城(伊勢原市・平塚市)の三浦氏などを滅ぼし、1516年(永正13)に相模国を平定します。さらに2代目の氏綱(うじつな)は、公方家や山内上杉家の内紛による混乱のさなかに武蔵国の江戸城を落とすと、1537年(天文6)には、合戦続きでその力を弱めていた扇谷上杉家の居城である河越城(川越市)も攻め落とし、扇谷上杉家の当主朝定(ともさだ・最後の当主)を追い詰めながら、領国を広げていきました。


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■第一次国府台合戦

 1535年(天文4)、古河公方の高基(たかもと)が亡くなると、子の晴氏(はるうじ)が後を継ぎますが、下総国小弓城(千葉市)に在城する叔父の小弓公方足利義明(よしあき)との争いは、まだ続いていました。北条氏綱が2代目当主になると、しばらくは古河公方と小弓公方の争いにはかかわらなかったようですが、小弓公方が安房国の里見氏や上総国の真里谷氏の内紛に介入し、その勢力を広げてくると、氏綱は小弓公方に対決姿勢を示すとともに、小弓公方を排除したい公方晴氏と利害が一致したことから、同盟を結びました。
 1538年(天文7)、小弓公方義明は、領国の拡大を目指す氏綱が下総国葛西城を支配下に置くと、北条氏への危機感から、里見氏や真里谷氏らと共に国府台城(市川市)に入り、一方の氏綱は、兵を引き連れ江戸城に入城したことで、太日川(ふといがわ・現江戸川)を挟んで対峙することになり、ここに第一次国府台合戦が起こります。合戦の序盤は、太日川を渡り攻めてきた北条勢を撃退した公方義明方が優勢でしたが、数にまさる北条勢に挽回され、義明は討死し、味方の里見氏は安房に敗走しました。
 晴氏は、この戦いで敵対していた小弓公方を葬ったことで、念願がかなうことになりましたが、この戦いに北条氏を巻き込んだことで、北条氏の勢力は武蔵国南部から下総国一帯まで広がることになりました。

■北条氏が古河公方に接近

 氏綱は、その勢力を下総国まで広げると、次は関東の諸将の棟梁である古河公方の権威を手中に収めようと、簗田氏と古河公方の関係にくさびを打ち込んできました。
 すでに公方晴氏は、簗田氏と関係を深めるべく、簗田高助(たかすけ・成助の子)の娘を娶り、嫡子藤氏(ふじうじ)を儲けていましたが、先の国府台合戦で北条氏の力を借りた弱みから、北条氏から申し出のあった氏綱の娘芳春院(ほうしゅんいん)を正室として迎えざるを得ないことになってしまいました。
 今まで簗田氏は、直助、満助、持助とそれぞれの娘を公方に輿入れし、何代にもわたり婚姻関係を結ぶことで、家臣の中でその地位を堅固なものとしてきたことから、今回の北条氏と公方の新たな婚姻関係の成立は大きな危機感を感じていたものと思われます。しかし、氏綱も公方の重臣である簗田氏の力を侮ることはできなかったのでしょう。この輿入れに際して「決して簗田氏を攻めることはしないと神仏に誓う」という内容の起請文を高助に送るなど、簗田氏への懐柔策も忘れずに行っていたようです。

■河越合戦

 1541年(天文10)、氏綱が亡くなり氏康(うじやす)が当主となります。これを待っていたように1545年(天文14)、先年氏綱が攻めて占拠していた駿東地域の奪還を目指して、駿河国守護今川義元(よしもと)が出兵してきます。義元に吉原城(不明)、長久保城(静岡県長泉町)が落とされたことで、東駿河に新たな対立の火種ができ、氏康は西に今川氏、東に上杉氏と両側を敵に挟まれた危険極まりない状況になっていました。
 このような状況下、かつての本拠地であった河越城の奪還を狙う扇谷上杉家と、北条氏の関東への進出を防ごうとする山内上杉家に、公方晴氏が連合して、約8万騎ともいわれる軍勢で、1546年(天文15)北条綱成(つなしげ)の守る河越城を包囲します。公方晴氏は氏康の妹・芳春院を妻とし、北条氏と婚姻関係にあるにも関わらず、反北条方に参加してしまいます。
 氏康は、河越城に援軍を出したいものの、東と西に敵を抱えた現状ではそうもいかず、この状況を打開するため、甲斐国の武田晴信(はるのぶ・のちの信玄。以後「信玄」で表記)に斡旋をたのみ、義元と和睦します。和睦により西への心配がなくなったことから、綱成の救援に向けて軍勢を出すことができました。しかし、氏康の軍勢は約8000と言われ、兵力差があまりに大きく、正面からの攻撃では勝利がおぼつかないことから、一計を案じ夜襲を仕掛けることにしました。兵数は多くても烏合の衆の連合軍は、夜襲を仕掛けられ大いに動揺し大敗を喫してしまいます。扇谷上杉家の当主朝定が討死し扇谷家は滅亡。また晴氏も古河城に逃げ帰ることになりました。公方に同行したと思われる高助もこの後出家し、子の晴助(はるすけ)に家督を継がせてしまいます。
 また、もう一方の上杉氏、山内家の上杉憲政(のりまさ・憲房の子)は、上野国の平井城に逃れ、しばらくはその勢力を維持しましたが、河越合戦で多くの家臣をなくし、また離反する家臣も後を絶たず、この後没落の一途をたどることになりました。
  憲政は、勢力を盛り返そうと信濃の豪族村上氏と同盟を結びますが、これがかえって信濃への侵攻を目指す信玄と対立を生み、信濃国の小田井原(おたいはら・長野県御代田町)において、信玄と合戦し大敗。さらに1552年(天文21)には、氏康に本拠地の平井城を攻め落とされ、憲政は越後の長尾景虎(かげとら・のちの上杉謙信。以後「謙信」で表記)を頼り、越後に落ちていきました。

●河越城

 河越城(川越城)は、扇谷上杉家の上杉持朝が山内上杉家、古河公方に対抗するため、家宰の太田道真・道灌親子に築城させたものですが、当時の遺構は現存しないそうです。写真は1848年(嘉永元年)に建てられた本丸御殿(埼玉県有形文化財)で、江戸時代の唯一の建築物だそうです。図面は江戸時代に書かれた城下図で、本丸とその北側に二の丸、三の丸さらに西に中曲輪、外曲輪と大規模な城で、外曲輪にあった大手門は市役所あたりになるそうです(写真及び地図は川越市立博物館提供)。




所在地:埼玉県川越市郭町2丁目

■北条氏の血を引く義氏が古河公方に

 河越合戦に敗れた晴氏は、古河城に戻りましたが、晴氏の行動に対する氏康の叱責は厳しく、1552年(天文21)北条氏の軍勢に包囲されると、圧倒的な軍事力に屈する形で降伏し、公方の座も北条氏出身の母を持つ梅千代王丸(うめちよおうまる・のちの義氏)に譲らざるを得ませんでした。晴氏には、梅千代王丸のほかに、簗田氏の血を引く嫡子の藤氏と藤政の兄弟がいましたが、嫡子の藤氏は無理やり廃嫡させられ、そして晴氏自身も幽閉されてしまいました。
  このころの簗田氏は、高助の跡を継いだ晴助が関宿城主になっていましたが、氏康や梅千代王丸から、たびたび起請文が出され、懐柔にあたった様子がうかがえ、公方方の人事さえも意のままとしていた氏康も、簗田氏の扱いにはずいぶん心配りをしていたようです 。

●晴氏の墓所(宗英寺)

 観照山宗英寺は禅宗の寺院で、慶長元年(1596年)、関宿城主松平康元が創建しました。写真の五輪塔は4代古河公方足利晴氏の墓と伝わるもので、山門を入った左手にあります。もとは宗英寺から西へ200メートルの地にありました。また、五輪塔の右手には、関宿落としなどの治水事業を行った関宿藩士の治水家でもあった船橋隋庵(ふなばしずいあん)の墓もあります。




所在地:千葉県野田市関宿台町

 公方となった梅千代王丸は、1554年(天文23)北条氏の支城である葛西城で元服し、将軍足利義輝から「義」の一字を偏諱として受け義氏(よしうじ)と名乗りました。
一方、北条氏によって公方を無理やり義氏に譲らざるを得なかった晴氏と藤氏の不満は大きく、義氏が不在となった古河城に立てこもりましたが、北条勢に攻められて古河城は落ち、今度は秦野(神奈川県秦野市)に幽閉されてしまいます。その後、再び晴氏親子は、反北条勢の常陸国相馬氏や下野国小山氏らと手を組んで古河城の奪還を目指しますが、これも失敗し、三度晴氏は捕えられて野田氏の居城である栗橋城に幽閉され、藤氏は安房国の里見氏のもとに逃げ落ちて行きました。
  このときの簗田氏の行動は、晴氏親子、義氏のいずれに付いたのかわかりませんが、1558年(弘治4)義氏が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮に参拝したときには、お供をしていることから、公方家の家臣として義氏に従っていたのではないかと思われます。

■簗田氏関宿城を出る

 1558年(永禄元)、氏康は反北条勢力の動きがある中で、簗田氏がこれまで勢力を伸ばしてきた拠点であり、氏康自らも「関宿城を手に入れることは一国を手に入れることにも等しい」と言っていた関宿城から簗田氏を切り離そうとします。晴助に関宿城を義氏の御座所とするから明け渡し、古河城に移るよう圧力をかけてきました。
  晴助は、氏康の圧力に抗うことができず、やむを得ず関宿城を出て、古河城に移りますが、氏康のやり様には無念の気持ちがあったと思われます。その一方で、氏康は晴助に対して、所領安堵や一族内での揉め事に対する裁判権を認めるなど、一族内での晴助の権力強化につながる事がらを認め、思い通りに操ろうとしていたものと思われます。

■謙信の関東出兵と上杉の名跡継承

 越後へ逃れた山内上杉家の上杉憲政は、関東での勢力を回復するため、謙信の後ろ盾を背景に、関東への出兵を繰り返します。しかし、北条氏に決定的な打撃を与えられないまま、小競り合いが続きます。そのような状況の中で1561年(永禄4)、関東に進出してきた謙信に、古河公方義氏の御座所となっていた関宿城が囲まれ、義氏は急ぎ城を捨てて下総国の小金城(松戸市)に、さらに武蔵国の江戸城(千代田区)に逃げてしまいます。この時の謙信軍には、憲政のほか、下野国の佐野氏、宇都宮氏、小山氏、常陸国の小田氏、真壁氏、簗田氏など関東の主だった反北条の諸将も参陣していて、北条氏の拠点である小田原城下まで進み、城を包囲することに成功します。しかし、堅固な小田原城を攻め落とすことができず、兵糧等の蓄えがなくなるのにあわせて、あきらめて撤退することになりました。その帰路の途中、鎌倉の鶴岡八幡宮に寄ったところで、謙信は憲政から上杉の名跡と関東管領職を譲られます。ここに関東管領上杉謙信(当時は政虎・まさとら)が誕生しました。

■簗田氏再び関宿城へ

 謙信は、関東における古河公方義氏と北条氏の体制を壊し、公方と関東管領という以前の体制に戻そうと、古河公方の血を引き、簗田氏を母に持つ藤氏(ふじうじ)を公方として擁立することを画策します。謙信の支援を受けた藤氏は、1561年(永禄4)古河城に入るとともに、古河城の晴助は義氏が去った関宿城に入城し藤氏を補佐することになりました。
 しかし、謙信が越後に引き上げると、翌年氏康は古河城を囲み、藤氏は捕えられ小田原城へ送られてしまいます。捕えられた後、藤氏は北条氏領内を転々と移されたようですが、1566年(永禄9)以降、消息が消えてしまったことから、氏康に自害させられたといわれています。
  一方の簗田氏は、ここで反北条という旗色を明確にし、後に起る関宿合戦に敗れて関宿城を出るまで、ここを拠点として対北条戦を戦うことになりました。

■第二次国府台合戦

 第一次国府台合戦により、国府台は北条氏を支持する千葉氏の所領となっていましたが、実質的には北条氏の支配下にありました。1563年(永禄6)、謙信の関東の拠点としていた松山城(埼玉県吉見町・城代太田資正(すけまさ))が、氏康と信玄に攻められたことから、謙信は反北条勢の安房国の里見義堯(よしたか)、義弘(よしひろ)親子に救援を求めます。要請を受けた義弘は、救援に向かいますが、国府台で北条勢の迎撃に合い、足止めを食っていたところ、松山城が落城してしまい、やむなく安房に引き上げます。1564年(永禄7)には、謙信は再び氏康からの寝返りを失敗して江戸城から逃げた太田康資(やすすけ)と、康資を保護した同族の太田資正を救うため、里見氏に救出を依頼します。里見氏は、約1万2千の軍勢を率いて、岩付城(城主太田資正)を目指し国府台に入ると、自力で守れないと思った千葉氏は、氏康に救援を求め、氏康は約2万の軍勢を率いて国府台に向かい、ここに第二次国府台合戦が始まりました。
 最初、里見氏は戦いを優勢に進めていましたが、北条勢の夜襲や家臣の切り崩しなどがあり、敗れて領国に逃げました。勢いに乗る北条勢は、一気に上総国を制圧するとともに、里見氏の領国である安房国にも迫りますが、後のない里見氏は、地の利を生かして北条勢をそれ以上は進めさせず、戦況はこう着状態となりました。
 しかし、この戦いで氏康は、里見氏を安房国に抑え込むことで、関東における勢力範囲を上総国まで広げ、さらにその眼は北関東に向けられることになりました。