戦国時代の関宿を舞台として活躍した簗田氏(やなだし)の紹介と、関宿城を中心としたエリア(野田市・境町・五霞町)の観光情報をお届けします。

北条氏の主な当主

◎北条氏の当主

◆伊勢宗瑞(いせそうずい・1456~1519)
 北条氏の祖。伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)、俗に北条早雲。室町将軍義教(よしのり・6代将軍)・義政(よしまさ・8代将軍)の申次(奏者)を務めた伊勢盛定(もりさだ)の子。将軍義尚(よしひさ・9代将軍)の申次を辞めて駿河に下り、駿河国主今川氏の家督争いに介入する。甥の今川氏親(うじちか・宗瑞の姉が母)を国主にし、その後後見人として活躍した。1493年(明応2)堀越公方2代茶々丸(ちゃちゃまる)を攻め切腹させる。扇谷上杉家と山内上杉家の争いである長享の乱に介入し、扇谷上杉家と連合し山内上杉家を攻める。山内上杉顕定(あきさだ)と和睦し伊豆と相模国西部を譲られる。古河公方家や両上杉家の内紛である永正の乱が始まると相模国の侵攻を本格化。1516年(永正13)相模国を平定。1519年(永正16)韮山城で没。

◆北条氏綱(うじつな・1487~1541)
 宗瑞の子。2代当主。1518年(永正15)宗瑞から家督を譲られる。小田原城を本拠地とし、1523年(大永3)名字を伊勢から北条に改称する。上杉氏領国への侵攻を本格化するとともに、1537年(天文6)駿河国今川氏と対立し、駿河河東地域に進攻する。また、扇谷上杉氏の本拠地である河越城を攻略し、翌年には古河公方晴氏(はるうじ)の要請を受け小弓公方義明(よしあき)と国府台(第一次国府台合戦)で合戦し滅亡させる。領国の範囲を伊豆国、相模国に加え、武蔵国半国、駿河国半国、下総国の一部に広げる。

◆北条氏康(うじやす・1515~1571)
 氏綱の子。3代当主。1541(天文10)氏綱の死去により家督を継ぐ。1545年(天文14)駿河国河東地域をめぐり今川義元(よしもと)と戦うが、両上杉家の河越城包囲の知らせにあい武田晴信(はるのぶ・のちの信玄)の斡旋で義元と和睦をする。翌年包囲を受けていた河越城を救援し、両上杉勢を破り、扇谷上杉家を滅亡させて、その領国を併合する。山内上杉家の領国にも侵攻し、1552年(天文21)山内上杉氏の本拠地平井城を攻め越後に追って没落させた。また、古河公方晴氏に氏康の妹が生んだ梅千代王丸(うめちよまるおう・のちの義氏)に公方家督を譲らせる。1554年(天文23)武田氏、今川氏と甲相駿三国同盟を結ぶ。1559年(永禄2)家督を氏政に譲り隠居するも最高権力者として君臨する。

◆北条氏政(うじまさ・1538~1590)
 氏康の子。4代当主。父氏康(うじやす)の後見を受けながら上杉氏との抗争や領国支配の制度改正を進める。1568年(永禄11)武田氏と抗争し上杉氏と同盟を図るが、1571年(元亀2)氏康の死去により、一転して武田氏と同盟をはかり上杉氏と断交する。1574年(天正2)武蔵国羽生城と下総国関宿城を攻略し、武蔵国一円の支配を得て、古河公方をその勢力下に収める。翌年には下野の小山氏を攻め、下野国に進出し、1577年(天正5)には房総の里見氏と同盟を成立させる。1578年(天正6)謙信(けんしん)の後継者争いである「御館の乱」の過程で武田勝頼(かつより)と対決した。その後武田氏の滅亡に伴い、駿河国の武田領に侵攻する。1580年(天正8)織田信長に服従を表明し、家督を氏直に譲り隠居した後も氏直を後見しつつ、最高権力者として君臨する。1590年(天正18)小田原合戦では責任を負わされ自害。

◆北条氏直(うじなお・1562~1591)
 氏政の子。5代当主。1580年(天正8)家督を譲られる。1582年(天正10)本能寺の変で信長の死去により織田氏と対立し、神流川合戦で織田家宿老滝川一益(たきがわかずます)を破り、追撃して上野国、信濃国に侵攻する。信濃国衆の帰属をめぐり徳川家康(とくがわいえやす)と対立するが、和睦し家康の娘を妻に迎える。1586年(天正14)家康が秀吉(ひでよし)に服従し、家康から秀吉への服属を働きかけられるようになる。1589年(天正17)上野国の名胡桃城奪取事件により秀吉から最後通牒を受け、交渉は決裂し小田原合戦となる。1590年(天正18)秀吉に降伏し紀伊高野山に蟄居し、翌年には赦免され1万石を与えられるが疱瘡を患い死去。北条氏嫡流の滅亡。


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