戦国時代の関宿を舞台として活躍した簗田氏(やなだし)の紹介と、関宿城を中心としたエリア(野田市・境町・五霞町)の観光情報をお届けします。

簗田氏の主な当主

◆簗田満助(みつすけ・1397~1438)
 良助の子。河内守。公方満兼(みつかね・鎌倉公方3代)から偏諱を賜り「満助」と名乗っているが、後世に付されたと考えられており、実名は「助良」といわれる。満助以降、公方家との婚姻を重ね、一族の発展の基礎を築いた。永享の乱で討死。菩提寺は東昌寺(五霞町)。

◆簗田持助(もちすけ・1422~1482)
 満助の子。中務丞・中務大輔・河内守。関宿を本拠地とする。公方持氏(もちうじ・鎌倉公方4代)から偏諱を賜り「持助」と名乗る。1455年(康生元)享徳の乱で成氏(しげうじ)に従い出陣し、小栗城(茨城県筑西市)の上杉勢を攻撃、また6月には武州南一揆を撃破し、この年に関宿城を取り立てたとされている。翌年には、市川合戦の後詰として出動、武蔵国足立郡を押領して市川城に入っている。そのほか公方成氏と成氏武将間の奏者としても活動する。1476年(文明8)菩提寺東昌寺に梵鐘を寄進する。墓所は安禅寺(古河市)。

◆簗田成助(しげすけ・生年未詳~1512)
 持助の子。中務大輔・河内守。関宿城主。古河公方の家臣で成氏、政氏の2代に仕える。公方成氏から偏諱を賜り「成助」と名乗る。1512年に関宿城を築城したと言われる。享徳の乱では上杉方と和平交渉にあたった。子の中務少輔が早く死去したため、弟政助の子高助を養子とした。

◆簗田政助(まさすけ・生没年未詳)
 持助の子で成助の弟。右京亮・大炊頭。水海城主。公方政氏から偏諱を賜り「政助」と名乗る。政氏の側近として奏者を務め、高助を成助の養子に送り込み一門内で勢力を振う。公方政氏と高基の抗争では政氏に就くが、政氏の失脚により力を無くした後も、最後まで側に仕えていたといわれる。

◆簗田高助(たかすけ・1493~1550)
 政助の子。中務大輔・河内守。関宿城主。成助の養子となり公方高基から一字「高」を与えられ「高助」と名乗る。公方政氏と高基の抗争により、高基を関宿城に迎い入れ実父政助と対立する。高基派で中心的な活動を行い、高基の奏者となり宿老中筆頭の地位を得る。娘を高基の子晴氏の室とし、公方家と婚姻関係を持つ。河越合戦で上杉方についたことで非難を受け、まもなく出家した。

◆簗田晴助(はるすけ・1524~1594)
 高助の子。中務大輔。関宿・水海城主。公方晴氏から偏諱を賜り「晴助」と名乗る。公方義氏(よしうじ)の元服式に参加。北条氏の命により一時関宿城を離れ古河城に移るが、謙信の関東進出により関宿城を奪還して反北条方となる。三回にわたる関宿合戦の末、開城し水海城へ退去。秀吉の小田原攻めで浅野長吉(のちの長政)と交流を持ち、のちの簗田助利(すけとし)の徳川家出仕の契機を作った。

◆簗田持助(もちすけ・1546~1587)
 晴助の子。八郎・中務大輔。関宿・水海城主。当初から反北条として活動する。第1次、第2次関宿合戦で北条氏を退けるも、1574年(天正2)の第3次関宿合戦では北条氏政に降伏し、関宿城を明け渡して水海城に移る。公方義氏(よしうじ)に赦免され、以後北条氏の軍事に動員された。公方家宿老として年頭祝儀の申上などに参加し、義氏との関係は悪くはなかった。織田信長の武将滝川一益(たきがわかずます)が上野国に入部すると今後の対応を諮問されるなど、信頼を得ていた。

【参考】戦国人名事典(吉川弘文館)/戦国の争乱と関宿(千葉県立関宿博物館図録)


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