戦国時代の関宿を舞台として活躍した簗田氏(やなだし)の紹介と、関宿城を中心としたエリア(野田市・境町・五霞町)の観光情報をお届けします。

鎌倉公方・古河公方の主な当主

◎鎌倉公方と古河公方
 京都に室町幕府を開いた足利尊氏は、武家政権の根拠地であった鎌倉の政治的、軍事的な重要性から1349年(貞和5)に鎌倉府を置く。鎌倉府は、関東及びその周辺を含む東国の経営にあたり、その長官を鎌倉公方と呼んだ。2代将軍の足利義詮の弟基氏を初代公方として鎌倉に下向させ、その補佐役として上杉氏を関東管領とした。
 公方は基氏の家系が世襲するが、代を重ねるごとに、将軍家との対立が深まり、将軍から任命されている関東管領との間も対立することになる。4代公方持氏は、幕府に反旗を翻したことにより、幕府に討伐され自害させられた。その後、幕府は鎌倉府を再興するため、持氏の子成氏を公方に就けるが、関東管領上杉憲忠を謀殺したことにより鎌倉を攻められ、古河に移る。これをもって鎌倉府は消滅する。古河に入った成氏は、古河を新たな拠点としたことから「古河公方」と呼ばれるようになった。

◎古河公方家のその後
 1582年(天正10)、古河公方足利義氏が死去すると、後継者の男子がいなかったことから、新たな公方は置かれず、娘の氏姫が古河公方家を相続し、御連判衆による執政が行われた。
 1590年(天正18)、氏姫は小田原攻めで北条氏が滅びると、秀吉に住まいを古河城から鴻巣御所(古河公方館)に移され、翌年には小弓公方義明の孫足利国朝(くにとも)との婚姻を命じられる。長年にわたり敵対していた古河公方家と小弓公方家がここに統合されることになった。また、この時に秀吉から、国朝には下野国喜連川(さくら市)に領地が与えられ、国朝はすぐに喜連川に入るが、氏姫は喜連川には行かず、鴻巣御所に住み続けた。
 1593年(文禄2)、国朝が文禄の役の従軍中に病死したことから、氏姫は国朝の弟の頼氏(よりうじ)と再婚し、義親(よしちか)を儲ける。その直後に関ヶ原合戦が起こり、頼氏は参陣しなかったが、家康に戦勝祝いの使者を送ったことから、のちに加増と喜連川の所領を安堵され、喜連川氏を称した。氏姫は、1620年(元和6)に鴻巣御所で死去するが、喜連川氏は喜連川藩藩主家として、石高5,000石の旗本でありながら、10万石の大名の格式を与えられ、明治まで続き現在も存続している。

◎鎌倉公方
◆足利基氏(もとうじ・1340~1367)
 尊氏の子。鎌倉公方初代。鎌倉にいた嫡男の義詮(よしあきら)が京都へ呼び戻され、代わりに二男の基氏が鎌倉公方として鎌倉に下向し、鎌倉府が設置される。南朝との戦いで鎌倉を離れ長く入間川沿いに滞陣した。その後南朝方の新田義興(よしおき・義貞の子)を滅ぼし、対立した執事(のちの関東管領)の畠山国清を討つなどの活動をしている。1363年(正平18)越後にいた上杉憲顕(のりあき・山内上杉家の始祖)を関東管領として呼び寄せ、上野国、越後国の守護職を宇都宮氏綱から剥奪し、憲顕に与えるなど、関東における足利家の勢力固めに取り組んだ。

 ◆足利氏満(うじみつ・1359~1398)
 基氏の子。鎌倉公方2代。従兄弟である将軍義満の一字を得て氏満を名乗った。関東管領と共に宇都宮氏をはじめとする関東諸将と戦い、関東に強力な支配権を形成する。1379年(康暦5)幕府内の抗争「康暦の政変」が起きると、将軍家に対して挙兵をしようとするが上杉憲春(のりはる・憲顕の子)に諌められ断念する。その後、小山氏や小田氏、新田氏など関東の親幕府派や南朝方の武将を攻撃し、自己の権力拡大に奔走した。1392年(明徳3)には陸奥や出羽の統治も行っている。

 ◆足利満兼(みつかね・1378~1409)
 氏満の子。鎌倉公方3代。将軍義満の一字を得て満兼と名乗った。将軍家との関係悪化が進み、1399年(応永6)大内義弘が起こした「応永の乱」に呼応して鎌倉を発つが、関東管領の憲定(のりさだ・憲顕の孫)に諌止され、さらに義弘の敗死を聞いて引き返し、幕府に恭順の意を示す。陸奥、出羽が新たに鎌倉府の管轄になったため、弟の満尚を篠川に、満貞を稲村に下すが、これにより奥州の豪族が反乱を起こし、上杉禅秀(ぜんしゅう)に鎮圧させている。

 ◆足利持氏(もちうじ・1398~1439)
 満兼の子。鎌倉公方4代。将軍義持の一字を得て持氏と名乗った。持氏と関東管領の上杉禅秀の間が悪化し、持氏を鎌倉から追放しようとすると上杉禅秀の乱が起きるが、幕府軍が鎮圧し鎌倉に復帰する。しかし、持氏は将軍家に対抗するため京都扶持衆の小栗満重や宇都宮持綱などを成敗し、新幕府派勢力の一掃を図る。これにより幕府は持氏討伐を計画するが持氏の謝罪により中止となったものの、将軍家との確執は大きくなっていく。持氏は、子の賢王丸の元服時に将軍の一字をもらわず勝手に「義久」と名付けたことから関東管領上杉憲実(のりざね)との対立が決定的なものとなり、憲実は鎌倉から領国の上野国に逃げ、憲実を追う持氏を幕府軍が攻撃し降伏するも義久と共に自害させられた。

◎古河公方
◆足利成氏(しげうじ・1431~1497)
 持氏の子。古河公方初代。幼名は万寿王丸。永享の乱後の結城合戦には参加せず、信濃国の大井氏のもとにあって、1447年(文安4)に鎌倉公方の名跡を継承し、関東管領上杉憲忠(のりただ・憲実の子)と鎌倉府を再建した。将軍義成(のちの義政)から一字を得て成氏と名乗った。1454年(享徳3)関東管領との対立から上杉憲忠を殺害し、享徳の乱を起こす。幕府の命を受けた今川範忠に鎌倉を攻められ、御料所の下河辺荘の古河に移り拠点としたことから「古河公方」と称した。一時攻撃を受けて佐倉の千葉氏に逃れたことがあったが、その後古河城にあって上杉氏の五十子陣と対峙した。墓所は満福寺(野木町)。

 ◆足利政氏(まさうじ・1466~1531)
 成氏の子。古河公方2代。母は簗田直助の娘。将軍義政の一字を得て政氏と名乗った。長享の乱では、当初扇谷上杉家の定正(さだまさ・持朝の子)を支援したが、定正の死去により山内上杉家の顕定(あきさだ・房定の子)と連携する。両上杉家が和睦したことで両上杉家と一緒に伊勢宗瑞の進出に対抗した。また、子の高基と対立することとなり、高基の攻撃を受け小山氏のもとに移り、高基が古河城に入ったことで古河公方の地位を失う。その後、久喜の甘棠院に移る。墓所は甘棠院(久喜市)で五輪塔がある。

 ◆足利高基(たかもと・生年未詳~1535)
 政氏の子。古河公方3代。母は簗田持助の娘。将軍義高(のちの義澄)の一字を得て当初は高氏と名乗り、のちに高基に改めた。政氏と不仲となり、宇都宮氏や関宿城の簗田氏のもとに移座を繰り返し、諸勢力を糾合して政氏を攻撃し、政氏の支援者である小山氏に走らせ、古河城に入ることで古河公方の地位に就く。その後も政氏を攻撃し岩付、久喜に追いやる。一方で弟の義明(よしあき)が小弓公方として自立し新たな対立を生む。

 ◆足利晴氏(はるうじ・生年未詳~1560)
 高基の子。古河公方4代。将軍足利義晴の一字を得て晴氏を名乗る。叔父の小弓公方義明(よしあき)の勢力が古河周辺までに及んできたことから、北条氏綱(うじつな・宗瑞の子)の援軍を得て国府台で義明を破る(第一次国府台合戦)。簗田高助の娘を娶り、嫡子藤氏を得ていたが、氏綱の娘と婚姻し梅千代王丸(のちの義氏)を儲ける。北条氏の関東進出に対抗して上杉氏と河越合戦に参加するが、敗れて古河に戻る。北条氏の圧力により、嫡子藤氏を廃し、梅千代王丸に家督を譲る。その後反北条勢力をまとめ、藤氏と共に古河城奪還を目指すが、敗れて秦野に幽閉される。宗英寺(野田市)に伝晴氏の墓がある。

 ◆足利義氏(よしうじ・1543~1583)
 晴氏の子。古河公方5代。簗田氏の血を受ける長兄の藤氏が嫡子となっていたが、北条氏の圧力で古河公方となる。将軍義輝の一字を得て義氏と名乗る。4代晴氏と藤氏による古河城奪還のころには、下総国葛西城にあったが、その後鎌倉、小田原を経て関宿城に入り、簗田氏は古河城に移っている。上杉謙信の関東南下に際して、関宿城を出て、小金、佐貫に転じ鎌倉に至る。その後古河城に戻り栗橋城の北条氏照(うじてる・氏康の子)の保護を受ける。関宿合戦を経て簗田氏や小山氏が北条氏に服属することで、北条氏の勢力は北関東に広がった。公方も北条氏の統制下に置かれるものの、義氏の死去により後継者がおらず古河公方は消滅した。墓所は徳源院跡(古河市)。


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